自分に素直に生きること

日野 涼音さん
山形県山形市 → 楢葉町
山形県山形市生まれ。東北芸術工科大学でコミュニティデザインを専攻。在学中のインターン先に楢葉町を選んだことから楢葉との繋がりを持ち、楢葉で暮らす人々の魅力に惹かれ、楢葉町に通うようになった。卒業研究を楢葉町に住みながら子どもとコミュニティをつなぐことをテーマに行い、2022年に大学を卒業。その後、楢葉町へ移住をし、子どもたちの「あそびば」をひらいた。

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日野涼音さんは三人兄弟の一番上として山形県山形市で生まれました。「人と違うのがいい」という感性を持っていた日野さんは、ランドセルは茶色、書道の道具入れは緑色、など、人が選ばないような色を持つことで嬉しさを感じていたのだそうです。

高校時代は産業調査部に所属。その部活で毎年エントリーしている生徒商業研究発表会で、県大会、東北大会、全国大会に参加でき、いろいろな場所へ行くことができることにも魅力を感じていました。部活では、今で言う「探究」の先駆けのような、地域に出て課題を見つけ、それを商業の力で解決することを目的とした活動をしていました。 日野さんたちは、人口減少を課題テーマとし、高校生のためのウエディングフェアを行いました。婚姻率の低下で結婚式を実際に見る機会も少なくなってしまったことが、結婚に対してのワクワクの減少の一因と捉え、ウエディングドレス着てみたいと若い人に感じてもらうため、街にある結婚式場の会社と連携して考えていきました。企画から関わり、司会も自分たちで行う、手作りのウェディングイベント。企業の人も参加した高校生も喜んでくれました。大会ではこの取り組みが全国大会へと進み、企業の人からは寄せ書きを頂くなど、多くの人たちが応援をしてくれる中でのプレゼンテーション。結果は優勝!日野さんにとっても大きな成功体験となりました。そして、部活でやってきたことを大学でも続けられたらと、部活の先輩が進学した東北芸術工科大学の地域活性のための勉強ができる学科を進学先として選びました。 

大学での学びで衝撃を受けたのは「正解がない」という事でした。自分で問いから考えていいということを知り、学ぶということの意味を初めて理解したように思ったそうです。

日野さんの大学では、在籍中に1ヶ月間のインターンに行くことが必須でした。そこで日野さんは、復興庁が実施している復興創生インターンシップで被災3県沿岸部のインターンシップの説明会に参加しました。水産加工業の広報系やマーケティングが多い中、「コミュニティを形にせよ」というミッションを提示していた楢葉町に目が止まりました。ヒアリング調査や課題の掘り起こしを行い、アクションに繋げてほしいというその内容を読んでまず、コミュニティデザイン学科で学んできたことを実践できるのではないかと思いました。また、福島県の浜通りは、日野さんのお父さんが仕事で来ていたことから、ずっと興味を持っていた地域でもありました。そして、ホームページの募集ページで、楢葉町のインターン募集元「ならはみらい」の職員の若い女性が大きな魚を持ち笑顔で写っているのをみて、年の近い方から学べると思ったのも決め手でした。その女性の名は西崎さん。インターンを通じて彼女の考え方に共感を覚えた日野さんの、その後の運命を左右する一人となりました。

楢葉町でのインターンの1ヶ月間はとても濃い時間でした。ミッションは災害公営住宅のコミュニティづくり。一軒一軒回ってのヒアリングではお茶飲み話が盛り上がり、災害公営住宅に住む人たちとも日に日に仲良くなっていきました。宿泊先のいわきから、早朝に電車で竜田駅に降りて、駅前でお店を構えている「武ちゃん食堂」のおかみさんとラジオ体操をしてから出社するのが日課となり、ラジオ体操に集まる人たちから様々な情報を教えてもらいながら、町に戻ってきた人たちのことを知っていきました。西崎さんにも相談しながらそこで出した結論は「災害公営住宅に住む人々は、既にもうそれぞれにコミュニティを持っている。これ以上のコミュニティをあえて作る必要は無いのではないか」というものでした。

インターンの期間が終わり、楢葉町を去る日のこと。楢葉町の職員の一人が日野さんに声をかけました。「今度はいつ来るの?」 その言葉が、日野さんが山形に戻ってからも、心の引っかかりとして残りました。また行かなければという気持ちが湧き、日野さんはことある毎に楢葉町に通うようになりました。

そんな中、竜田駅の駅舎が新しくなることになりました。町の人々が愛着を持って利用してきた明治42年に開業した旧駅舎とのお別れ。お世話になった武ちゃん食堂のおかみさんや町の職員の方など町の人たちが中心となって、「ありがとう、竜田駅」という竜田駅の想い出や写真等の展示、駅舎の模型展示、ジオラマ展示を行う企画が持ち上がりました。日野さんもジオラマの制作などの手伝いをすることに。そのジオラマは「町の記憶」を留めていく仕掛けとなっていて、期間中はそのジオラマを見ながら訪れた人たちが思い出を語り、その想い出を記した小さな旗をジオラマに加えていくというものでした。企画に関わり、様々な人々の話を聞きながら、そこでまた一歩、日野さんと楢葉町の関わりが深くなりました。

西崎さんをはじめ、楢葉で出会う人たちの考え方は共感が持てるものでした。「何をするのかではなくて、想いを大切にしたい」「未来の姿をイメージして、顔の見える人達と何かを作ったり、場を作ったり、風景を作りたい」そんな想いを抱き、日野さんは大学4年生の時、卒業研究の対象地を楢葉町にし、住みながら研究することにしました。

「私があこがれる大人が楢葉町にいる」卒業を目前とし、楢葉で出会ったそんな大人たちの考え方を近くでもうちょっと見たい、と日野さんは思いました。そして卒業後、移住を決意。楢葉に住みながら、卒業制作のテーマを深めていく形で「こどものあそびば」を開きました。

大学のゼミで教育関連の勉強もしていた日野さんは、楢葉町で子どもと地域の大人をつなぎ、子どもにとって地域の大人が第3の居場所になるにはどうしたらいいかということを考え、卒業研究のテーマにしていました。そして子どもにとって頼れる大人が増えていく仕組みを作ろうと、写真と手紙というコミュニケーションツールを使った研究を実施。子どもたちが撮影する日常を大人たちに見てもらう、大人たちからは子どもたちへ言葉を贈る、そんな交流を通じて、お互いが心に描いていることを渡し合う機会を作ったのでした。

その研究を進める中で、双葉郡では子供に向けて支援をしている団体が少ないと感じました。この地域で生きていく子供に、選択肢を増やすアプローチが必要なのではと思いました。大学の時に宮城県で視察した教育系のNPOの事例を参考に、楢葉町でも何か子ども向けの場所を作りたいと、思ったのだそうです。

また特にこの地域では、子ども達に福島の未来のために頑張ってほしいという期待がかかりすぎているのではないか、という部分にも課題を感じていました。ここに生まれたからといって頑張る必要はない、子どもは好きに生きているだけでいい、役割を持つ必要はない、と日野さんは思いました。そして2022年10月。日野さんはアートを手法として取り入れた楢葉町の子どもの居場所として、ならはこどものあそびばを始めました。

日野さんは、子どもから逆に学ぶことも多いと語ります。子ども達の関心は3秒で変わる。絵の具を使っていたと思ったら次の瞬間にはクレヨンを使っている。それ見ているのも楽しいし、子どもの捉われない自由さで描かれた絵に、逆に刺激を受け、日野さんが仕事としているデザインワークにもその経験が生きることもあるそうです。

「この場所も正解、不正解ではなく、気持ちを大事にしてほしいと思っています。表現活動ができる遊び場であってほしい。床とか壁とかに絵をかいても良いような体験を担保したい。自分の気持ちを素直に表せるような、ありのままでいられる場所になれたらいいと思います。」

旧街道に面したかつて店舗を改装したその場所は、絵の具や段ボールなども並び、秘密基地を作るなど、日々子どもたちによって変化しています。そこに近所の人たちが素材を持ってきてくれる、散歩がてら立ち寄る人がいるなど、自然と交流が生まれています。徐々に知り合いも多くなり、日野さんにとって楢葉町は、第2のふるさとになりつつあります。

移動式の「あそびば」もやってみたい、と日野さんは話します。いろんな場所で「テーブルを開けばあそびば」を開く、そんな生き方にも興味を持ち始めたそうです。「自分に素直に生きることや自分が楽しめることを大事にする」それは楢葉の憧れる大人たちが体現しながら日野さんに教えてくれたことでもあります。日野さんにとって「あそびば」自体が日野さんの表現の場所でもある。みんながありのままでいられる場所を作るために、日野さん自身がありのままでいることを心掛ける。機会があれば海外へ行くなどいろんな世界を見て文化などを吸収したい気持ちもあるそうです。「あそびば」自体も成長し続け、日野さんだけでなく子どもたちによっても変化し、地域との関わりの中で育っています。

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