子どもたちの生きる力になる経験を

松本 祐子さん
埼玉県 → パラグアイ共和国 → 東京都 → 島根県隠岐郡海士町 → 楢葉町
埼玉県生まれ。大学卒業後にさいたま市内で家庭科の教員を勤める。その後、青年海外協力隊としてパラグアイに行き現地でも教員として活動。帰国後は事務職員を経て、地域おこし協力隊として島根県の離島で教員をするなど様々な経験を積み、楢葉町へ。

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埼玉県大宮市出身の松本さんは大学で食物栄養学を学び、家庭科の教員免許を取りました。大学在学中に縁があり旅行でイランに訪れたことが、教員を目指すきっかけになったそうです。
滞在期間中、実際に現地の人々と生活を共にする中で、カルチャーショック受け、そこで学んだことや経験したことを伝えたいと思い、卒業後、家政科がある高校で非常勤講師として勤めました。「食物は世界のさまざまな国から輸入されており、食料自給率は40%程度で多くを海外に頼っている。家庭科は実はグローバルな話が多いんです」と松本さんは話します。海外はどんな状況なのか、着る服を安く手に入れているのはなぜなのか、いろいろ知りたいと思ったのがきっかけとなり、青年海外協力隊でパラグアイ共和国に2年間行くことにしました。

「当時の自分は怖いもの知らずだったのかも」と松本さんは振り返ります。2年間も日本に帰れず、帰国後の仕事などの不安がある中でスペイン語が母国語という、英語も日本語も通じないパラグアイ共和国に出発しました。
自分の仕事は、現地の小学校や施設で家庭科のような授業を通して、売れるものを作るというものでした。裕福な国ではなく、人の物を盗んで売ってお金にする子どもが多い中、「物を作って売る」という事を教えるのが目的でした。子どもたちは物を作ることに意欲的で、興味を持ってくれました。しかし、そのうち物を作るために友達の材料を盗む子どもが出てくるなど、日本では考えられない事もたくさんありました。
青年海外協力隊での活動を通して、物だけの支援では本当に困っている人になかなか届かないという現実も現地で知ることができ、現状に寄り添った支援の形というものを考えさせられる機会となったそうです。

パラグアイ共和国からの帰国後、東京で事務の仕事を2年間勤めた後、地域おこし協力隊として島根県の隠岐諸島にある海士町(中ノ島)に行きました。家庭科の教員をまたやってみたいという気持ち、それと、地域の文化を取り入れた授業ができ、離島で働けるという内容に惹かれての応募でした。
海士町は人口が3,000人ほどの島で、小学校から高校までありますが、過疎化で高校の存続が問われる状況下で、移住者を増やし、県立高校を残すための取組が町ぐるみで行われていました。家庭科の教員募集もその一環でした。スーパーやコンビニがない島で、松本さんは4年間過ごすことになりました。コミュニティは狭いながらも打ち解けやすい雰囲気がある地域でした。
松本さんのミッションは、家庭科教育コーディネーターとして地域の文化を取り入れながら特色ある授業を作り、授業の枠を増やすことで、これまで非常勤しかいなかった家庭科の教師を常勤として学校に置くようにすることでした。
松本さんの授業は、料理を教える、裁縫を教えるといったものであっても、地域の米づくりに関わったり、産業に関わったりと、地元の方を外部講師として多く招くスタイルでした。海士町は高校の魅力化として教育に力を入れており、現在全国各地で取り組まれている地域に開かれた学校づくりの先駆けでもあった地域です。周りの先生も意識が高くなり、意欲的な生徒も県内外から多く集まってきていたそうです。やりたかった仕事をする事ができ、満足していましたが、友人から海外の会社で働かないかという話を受けました。スペイン語が話せて農業に関心があり、僻地に行ってくれる人を探していて、ピンポイントで自分に声をかけてくれました。島根のみんなには、いろんな経験を積んで戻ってくると伝えていたのだそうです。海外にも研修で通いながら、ある時に農業研修のため、楢葉町にある農業の会社にいくことになりました。それが、松本さんと楢葉の出会いになりました。

2015年に楢葉町に来た時の印象は「のどかな田舎」。震災後すぐに島根に行ってしまったので、今まで、震災のことをそれほど身近に感じたことは無く、津波や原発の影響のことを考える機会も少なかった松本さんにとって、町中に線量計がたくさんあったことは衝撃だったそうです。他にも大熊に残っていたバリケードには痛々しさを感じました。
研修期間を過ごす中で、海外行きに迷いが生じていた松本さん。楢葉町での研修先の社長さんの人柄に感銘を受け、楢葉町への移住を考え始めたのだそうです。
これまでの教育分野とは違い、人と接する機会が減る事に寂しさもありましたが、楢葉町には海、田園風景、山があり、環境にとても惹かれました。
楢葉町での仕事を決意した松本さん。農業の仕事は初めてだったので、機械の扱いなど戸惑う事もたくさんありましたが、丁寧に教えてもらい、資格も取得してトラクターに乗って仕事もすることができました。

その後、松本さんは、楢葉町の方と結婚し、楢葉町の住人となりました。子どもたちが生まれ、現在3人のお子さんを育てながら楢葉でお仕事もされています。「楢葉町は適度な田舎だと思っています。島根の隠岐の島だと2本しかない船を逃したら本土に渡ることすらできないが、楢葉町は陸でつながっている。実家には3時間あればいつでも車で帰ることができる。適度な場所を見つけたという感覚でためらうことはありませんでした。現在は、家業の農業の仕事を手伝いながら、色々な機関や農業者の方などにアドバイスを受けながらいろんな種類の野菜を作っています。楢葉町はいろんなものが身近だと感じます。役場だったり、ふらっと相談できたりするいいところだと思います。ただ、震災やコロナの影響で地区の行事やイベントがなく、人との接点の持ち方が難しく、人とつながる場が少ないとも感じています」と松本さんは言います。

コロナ禍の状況下でも、楢葉町では、人と集まらずとも自然の中で遊ぶ場所がたくさんあり、環境に助けられていると松本さんは言います。今は子ども中心の生活で、お仕事は『子どもたちにどんな経験をさせたいか』を基準に選んでいるそうです。子どもたちにも生活の根っこである農業に関心を持ってもらいたいという気持ちもあり、嫁ぎ先の家業でもある農業や土遊び、機械に触れることができ、畑で一緒に野菜を収穫したり、トラクターに乗せてみたりと、ここにはいろんな材料があると言います。子どもの楽しみをいかに見つけるかという視点で子育てしていきたいと考えているそうです。また、牛乳好きな子ども達に動物や酪農を身近に感じてほしいという思いから、牧場でも働いています。休みの日は一緒に牧場に行って一緒に過ごす。松本さんの姿を見て餌をあげたり、フンの掃除をしたりしてくれたり、子どもがどんどん頼もしくなっていく様子を日々感じているそうです。
「楢葉での子育ては、都会では得られない経験ができます。生きる力を身につける恵まれた環境だと思います。これからもどんな経験をさせてあげられるか楽しみです。」と松本さんは語ります。

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